「おくりびと」からの祝福

Cooria

ー 2016年12月のある日 ー

「余命1〜2週間です」
そんな医師の言葉は嘘なんじゃないか…
面会の時、そう思えるほど血色のある顔で穏やかに呼吸しながら眠る祖母。

〝おしゃれで元気だった最愛のおばあちゃん”
10年ほど前に認知症を発症し、数年前から近くの施設で過ごしている。
もう多分私のことは忘れている。
もしも覚えていたとしてもきっと「どこかの誰か」位のものだろう。
それでも自分の中ではいつまでも〝あの頃 ”のおばあちゃんのまま。

沢山の記憶や素敵な思い出をどこかへ持って行ってしまう
「認知症」って病気が本当に憎いと思っていた。

でも、認知症なおばあちゃんと向き合うごとに
過去の記憶よりも大切なのは「今」であると…
認知症という病気に対しての憎しみは段々と薄れてきている。

余命宣告されても割と穏やかでいられるのはいわゆる「老衰」だからだろう。
余命宣告の後は、来るべく時が来た、そんな気持ちで家族は皆
内心そわそわする気持ちを抑え、できる限り冷静かつ穏やかに数日を過ごした。

「老衰」とは、加齢によって生命の維持が出来なくなること。

体は健康でも、この世で生きるには限界がある。
「死」を旅立ちとするならば
急がず穏やかに、老衰はきっと理想的な旅立ちなのかも知れない。

「間もなくです」と連絡を受けたのは余命宣告されたから10日目のこと。
心の準備が出来ていたせいか、いよいよだ…と
寂しさと華麗なる旅立ちを見送る気持ちがマーブル色になって心の奥から溢れてきた。

施設に到着し、まだ温かいおばあちゃんの体を触り
「間に合った」とホッとするも、
その旅立ちを見届ける準備に気持ちを切り替えざるを得なかった。

余命宣告から全く食べず、水もほとんど飲まず
それでもここまで生きれていることを目の当たりにし
人の生命力は一体どこから生み出されるのだろう?

体を優しくさすりながら
自分のエネルギーを少しでも与えたいと思っていたのに
食べること飲むこと以外の生命に必要な
「気」というものの存在の大きさを改めて気付かされると共に
今まさにこの世での人生を終えようとしているおばあちゃんから
逆に温かなエネルギーと、生きることへのメッセージを受け取った気がした。

それから数分後
おばあちゃんは安らかに旅立って行った…

今までありがとうの涙と一緒に
もっとこうしてあげればよかったと
後悔の涙も溢れてきて
こんな自分を許して欲しいと
ただただひたすら涙が止まらなかった。
「息を引き取る」
この言葉を私はよく知っている。
なぜなら今まで人や動物の最後の瞬間に一緒にいることが多いから。

実は私、幼い頃から「おくりびと」体質。
人間でも犬でも
家族の最後は必ず私がそばにいる。
目の前で息を引き取る場面、何度見てきただろう。

旅立ち前は家族を明るく
前向きな気持ちになるようにエネルギーを注ぐ。
それが一番いいと、経験から学んだ。

昔はこの体質が嫌だったけど
ある人の言葉でそれが変わった。
「死とは、地上での罪を許され、神様によって天に召されること。祝福されるべきこと。
召される時は癒されたい、そんな時にいて欲しい存在があなただと、生き物は直感で感じるんだと思う。」

そう、私は「祝福の場」にいつもいる。
それが自分が生きる役割の一つだと知った。

息を引き取る。
この言葉のイメージだと最後の呼吸は吸う息と思われがち。
でも実は、最後の一息は「吐く息」。それも深く長い息。
何度も何度も見てきたから知っている。

「おくりびと」という映画が公開された時
その映画を海外ではdepartures(旅立ち・出発)と呼んでいた。
旅立ちを見送る人と解釈する。

死が旅立ちなら
最後に吐く息は、残された人へのギフトなのかも知れない。
「息を引き取る」とは残された人たちに命を引き取られるということ。
私たちが息を受け継ぎ、繋いで行くための最後の大切な息。

だから、残された人たちは
その息を大切に使わなくてはいけない。
「死」という形を見せてくれるのは
同時に「生きる」ことへの勇気を与えてくれるのだと…。

クーリアのスタジオは
おじいちゃんおばあちゃんの家をスタジオとしてリニューアルしたもの。
今日もここで深く呼吸している。

しっかりと生きること、それがきっと
故人からの許しとなると信じて…。

これからもこの場所で人に生きる勇気と喜び
命あることの感謝を与え続けたいと思っている。

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✴︎写真はおじいいちゃんとおばあちゃんの結婚式。
天国でまた再会出来たことを心から祝福している。

ありがとう。おばあちゃん。
おめでとう。おばあちゃん。

Cooria

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